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写真集「ことでん仏生山工場」

2012年6月8日。再び、「ことでんの心臓部」と呼ばれる仏生山工場を訪れた。ここで働く彼らの集合写真を撮るためだ。重厚なブラウンの世界は今も私を魅了してやまない。

1年前の冬、わたしは仏生山駅構内で別件の撮影をしていた。この時、隣接する巨大な建物が気になった。中から出てきた人に勇気を出して声をかけてみると「ここは電車工場で、古い車輌を購入して改造し走らせているんです」と言う。首都圏でかつて走っていた30年落ちの中古車を、年間最大8台ほど京浜急行や京王電鉄などから入手し、改造補修して「ことでん」に生まれ変わらせるのだそうだ。足りない部品は自分たちで鉄を加工して手作りしていると言う。彼らの手によりピカピカに生まれ変わった愛らしい車輌は、さらに数十年、寿命を延ばして走り続けるそうだ。

地元の人間にもそれほど知られていない話を聞いて私は興奮した。「写真を撮らせて下さい!」。気づくとそう言っていた。折しもことでんは開業100周年を迎えるところで、記念事業の責任者である真鍋康正取締役も、新しい百年に向けこの工場を記録したいと考えており意気投合した。そのままことでん開業100周年事業の一つとして依頼を受け、同年の3月から10月にかけて仏生山工場を何度も訪れ記録撮影することになる。

初日の衝撃は、忘れることができない。


1969年(昭和44年)にできた工場の大戸をくぐると、中は意外なほどに暗かった。私はグリスの臭いを嗅ぎながら、バチバチという溶接の音とともに奥へ奥へと足を進めた。大きな電車が何台も横たわっており、約25名の職員がチームに分かれて作業していた。保有する84車輌は、数年おきにネジ一本までバラバラに分解され、洗浄・点検・修理されている。それらの作業が各担当場所で同時に進められていて、私はとにかく混乱した。工場の中、人も機械も工具も、眼に映るもの全てが圧倒的な被写体で、一向に照準が定まらない。初日は何を撮るべきかも決められず、工場に完敗して終わった。同時に、この撮影が長期戦になることを覚悟した。

結局、8ヶ月かけて撮影を行うことになった。
工場を訪れるたびに被写体に引き込まれ、次第に何も考えず反射的にシャッターを押すようになっていった。工場の一部となって感じるままに撮った。「無心」と呼べる状態だったのかもしれない。工場の何を撮るのか、どう撮れば美しいのか、どう見せると伝わるのか、そんなことも考えなくなった。さらに、これまでの撮影のこと、これからの写真の仕上がり、将来の評価といったものも全く意識しなくなった。そこには過去も未来もなく、ただ今だけがあった。企画も時間も演出もなくはじまりも終わりもない、ただこの瞬間の工場だけを記録しようとした。だからこそ8ヶ月間、撮りつづけることができたのだろう。


これまで技術を高めることや、美しく撮ることに執着していたが、それらを捨てて無になれた時に、作為は不要になり、被写体に身を委ねることができた。体験したことのない工場での無の時間が、私に本当の写真の意味、目指すべき写真家のありかたを教えてくれたと、今は思っている。

これまで様々な写真を撮ってきたが、誰に頼まれるわけでもなく撮りたいものを撮る「作品」と、誰かに依頼されて撮る「仕事」を、異なるものとして受け止めていた。「仕事」は「作品」ではないし「作品」にはなり得ないと徹底して区別することで写真家としてのバランスを取ろうとしてきたように思う。ことでん仏生山工場で、その二つが初めて自然と重なりあった。被写体に身を委ね、あるがままを記録しようと感じたことで、「仕事」と「作品」の区別はなくなった。表現から記録へ。それから仕事への姿勢が変わり、写真家としての生き方が変わった。

その後も仏生山工場の皆さんとの交流は続いている。電車王国と呼ばれる日本で、私たちが日ごろ当たり前のように「定刻に・安全に」利用できる電車を支えているのは彼らだ。極めて専門性が高い知識技術は、各自の熱心な研究心により構築され伝承され、「絶対安全」という強い思いによって日々支えられている。

そしてこの工場にも時代の変化がやってくる。木造の電車が鉄になったように、鉄の時代にもやがて終わりは来る。だが、電車の技術がどれだけ変わっても、頑固に安全を守り続ける人々が、いつも変わらずそこにいるだろう。私は彼らを撮り続けていきたい。

GABOMI.

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